「君、いつもこんなに早いのか」
汰奈橋久通は不意に後ろから聞こえてきた、夕べはお楽しみでしたね、という武智の呟きに振り返る。時刻は朝の五時を回ったところで、この季節だと白み始めた空がレースカーテンを薄ら明るく照らしている。
「いや早いというか、俺も同じですよ、お楽しみ」
武智が視線で促したその先には部屋から籠もれ出る光、久通は中に誰がいるのかを確認する気はないが、彼が言っている意味は把握した。
汰奈橋久通は神田佳奈美と、武智光博はどこぞの誰かと、一晩中おセックスタイムであったことがうかがい知れる。
「君も大変だな」
「いえいえ、久通パイセンこそ」
フフフ、とぶはは、毛色が異なる笑いが早朝の静かな空間にささやかに響いた。今日は月曜日。学生にとっての休日は終わりを告げ、また一週間、学校という現実が始まる。朝起きて、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、登校する。そんな学生としての健康的なサイクルが、始まるのだ。
午前八時半。西秋中学園の始業は八時四十五分であるので、当然この時間は学生達の投稿数が最も多くなる。駅から校門までは当然の様に沢山の生徒が溢れていて、九割は学園の生徒という風景がこの通り道の日常だ。
「うーわ、今日も一緒に来てるよー」
「時々たけちーの正気を疑いたくなるわー、ほんとに」
時間をずらし登校を済ませていた結城姉妹が、もはや私室と化した新聞部部室から校門を眺めてうんざりした声色で吐き出した。もはや始業式から二週間だ。最初は名物だったが今ではもはや理解出来ないという腫れ物を扱うような視線を周囲から集めているイベントがある。
今彼女達の目に映し出されている三人の生徒の登校風景。
神田佳奈美と現・彼氏である汰奈橋久通、そして元・ペットである武智光博が仲良く楽しげに歩いていた。矛盾はないけど破綻はしている摩訶不思議な空間。愛玩動物が彼氏彼女と一緒に家を出て、登校してくるなんてほほえましい光景なのだが、その配役が全て人間という事実のせいで、おぞましく背徳的な何かに変わり果てて締まっている。そしてその状況を何よりも煙たがっていた理事長が黙認しているところが、生徒達の疑問に拍車をかけていた。
一体何がどう転んでこんな顛末になってしまったのか。
神田佳奈美と汰奈橋久通は一応捨てるものが無い無敵状態ではあるものの、お付き合いの関係をする以上、唯一にして最大の問題を抱えていた。ちなみに衣食住は問題ない。生活するためのお金は足りている。神田佳奈美はITに強いビッチなだけでなく、それなりに優秀であり有能である。実行力に至っては無駄に突き抜けている。基本スペックだけでなんでも一から十まで出来る女なのだ。炊事洗濯仕事セックス機械工作に性行為、勉強部活金融投資にオチンポ弄りと一通りこなせしてしまう。同じ意味の言葉が重なっているのは頻度がそれだけ多い項目である。
そんな彼女が自分の欲求を満たすためにお金が不足するような状況に身を置くわけがない。神田家の潤沢な資金力(お小遣い)を元手に投資運用はぬかりなく、近年の仮想通貨バブルで荒稼ぎを行い未成年にはあるまじき金額の貯蓄を有しており、その財産は神田家の財務状況からも完全に切り離されている。立ち上げた会社名義の法人用クレジットカードまで所有している始末で、衣食住に関しては満ち足りている。
では彼女に立ちはだかる壁とはなんなのか。
一言で言うと親である。
親に依存しない環境を持っていることと、親の存在が必要ではないかは直結しない。そもそも親が子に与えるのは財や教育などの環境だけではない。コミュニケーションや愛情、いるだけで影響を与えてしまう立ち振る舞いなどさまざまで、そして神田佳奈美にはまだ親の愛が必要なのだ。
そもそも、神田佳奈美という人物は人間関係を切り捨てるという行為を基本的にチョイスしない。
今は彼女の中で神田弘蔵の順位が汰奈橋久通よりもその優先順位が低くなったとしても、彼女を愛しているれているパパが大好きな点は彼女の中では変わっていない。当然それは武智に関しても同様である。優先順位が低くなっただけで愛情の量は全く目減りしていない。もっともこの彼女の思考を最も理解しているのは、武智光博ただ一人であろう。実父の神田弘蔵だって理解までは及んでいない。娘に嫌われないためにはどうしようかとこの男を駒にするような真似をしてなお、不安を抱いている始末だ。
実際武智だけが、彼だけが現時点で神田佳奈美の一番の理解者である。体だけではなく、心だって重ねた回数が違う。悦楽と慈愛と慰め合いと、献身と依存と独占欲。無限に愛を受け入れる彼女に、何度も何度も愛を注いできた彼だからこそ、ある程度理解ができるのだ。
彼女は愛され続けたいがために、相手に対してリターンを与え続づけることで、人間関係を維持しようとしている。そういう生き方で安心と安らぎを得られるように環境に心を整えられている。だから一番身近な存在である家族を切り捨てることなど彼女の選択肢には無い。汰奈橋を認めてくれないならパパなんていらない、ではなく汰奈橋を認めてちょうだいよ、パパも愛しているんだからという論理だ。
彼女は愛されるためにはまず、こちらから与えなくてはいけないということを知っている。ただし、その与えるという行為がとても厄介なものであり、相手にとってそれが望むべくもので無いものである場合が多々あるという事実が、数ある男が彼女とのお付き合いの後、心を壊してしまったという現実を生んでしまうのだろう。
で、あるからして彼女と一緒にこの障害を乗り越えなくてはならない久通は、いかに親に認めてもらえるような存在になるかという難題を突きつけられることになる。商売敵で、スパイかも知れなくて、おまけに嫌がらせまがいのことを会社レベルでしかけてきた、一家の長男とたった一人の溺愛されている愛娘。彼個人が信用されても、信頼されるための土台が、がったがたなのである。
平たく言えば君はいい男だよ、でもあの一家の一員でしょう? もっとぶっちゃけると君、いくらカレーの味をしていても俺は知っているよ、どうあがいても君はうんこの眷属だよね。ということだ。どんなうんこであれ、うんこであるかぎりは、出来うるなら娘に近づけたくない。親の気持ちとしてはそれだけで拒絶反応がでてしまうのに十分であり、首を縦には振るには間接的なサポートが必要になるだろう。
久通が協力してくれないかと、武智にこぼしたのはそういった意図もあった。彼の状況はわりと八方ふさがりであったのだ。
「なんだ、そんなの簡単じゃん」
そして難問に難なく答えを出した武智に、久通も、佳奈美も目を丸くする。
「俺と一緒に住もう!! 久通パイセン!!」
それから数日、驚くべきことに神田弘蔵はそれ以降彼らの交際について全く口をだしてこなくなった。それだけではない。三人では手狭になるだろうと武智が使用している住まいや拠点の他に、学校近くの3LDKの高級低層マンションまで手配する始末である。
「いったいどういうことだろうね、お義父さんのこの変わり様は」
久通の心中は複雑であろう。自分がどう足掻いても解決の見込みが無かった問題を、武智があっさりと解決してしまったのだから。
「えー、パパはちゃんと筋を通せば分かってくれるよー?」
佳奈美のあっけらかんとした返答にも彼は苦笑いだ。だいたいその筋がどこら辺をどのように通したのかが意味不明なのだ。だがまったく分からないと言うわけではない、彼はそこまでバカではない。薄らと真実は察している。目の前で呑気にスマホをタップしている自分の彼女の元ペットという存在が、彼に足りない信頼という土台を補強したのだ。
「そうそう、パパ上様は話せばわかる、いいパパ上様なんですよ」
ねー、と女子特有のジェスチャーで声を合わせる佳奈美と武智。いや君もやるのかそれ、という眼差しだけで、口にそのツッコミを出さない所が久通のよいところでもあり、どうにも変わりきれないところである。今回家を飛び出し、定まった牢獄のような人生からの脱却を図るために行動を起こしたものの、搦め捕られた先で、また見えない何かに嵌められようとしていることに気づけない。予感があるのに気づけない。
今の状況が無関係の人からみたら、ちゃんちゃら異常この上ないなんて、この後に及んで意識できていない。
彼が気づけることと言えば、うんこに無菌カバーがついたことで、まあとりあえずはいいよという、神田弘蔵の気の変わり様だろう。自分自身の価値が変わっていないことに落胆を覚えているかも知れないし、それをバネに成長しようと、上を向くことぐらいしかできない。
「んでんで、久通パイセンはこれからどうするのさ」
「ああ、とりあえずは受験だな。晴れてうちの両親の邪魔が入らなくなったことだし、佳奈美の為になる大学へ行こうとおもっているよ」
「あは、私はどこでもいいよー☆」
経営か、それとも法学かな、と呟く彼と彼女の表情は中々に楽しそうに見える。そんな様子を武智は心底、そう心底――。
とても安らぎを覚えていた。
佳奈美が楽しそうにしている様子は、とても愉しいと武智は感じる。恩情と親愛と愛情と劣情がすべて混じると、家族愛に似た何かになる。行為行動にかかわらず、その人個人に抱く独立した感情。家族だからしょーがない、とか、おまえだからしゃーないだろ、とかだけどそんなおまえだからとか、そういう部類の好感情。好きとか嫌いとかではない存在が前提条件となった愛情だ。だから目の前で佳奈美と久通がいくらいちゃいちゃされても武智の心はまるで揺らがないし、むしろ佳奈美先輩だからまーそうだよね、というぐらいしか思えない。当然そのいちゃいちゃがセックスとかになっても同じだ。
だから
これから起こることに関して、武智は汰奈橋久通が適応してくれればなぁ、と思っている。このカップルが、武智と一緒に住むということで必ず起きてしまう不幸な事故に、この男が持ちこたえてくれさえいれば、
壊れずに済む。
壊さずに済む。
この純粋で罪のない、幼気な男の精神を不幸な目にあわせることはないと、祈っているのだ。
「薄ら寒い」
結城藤子は和気藹々と将来のことを話している三人を部室から傍目に見ながら、無遠慮に吐き出した。言葉には出さないが祥子も気持ちは同じだろう。
「なんて表現したらいいのかなー、これ」
うーん、うーんと頭を捻る祥子。喉元まで出かかっていると言うより、それを形容出来る表現が自分の知識にないという感じだろう。
「噛み合ってないっていうかぁ、その同じ土俵にいないっていうかー」
「対等じゃないっていうかー」
「うーん、ありゃ雄蟷螂と雌蟷螂が蜘蛛の巣の上で踊ってる感じだな」
「お、それしっくりくる、って――」
結城姉妹がぎょっと振り返ると、そこには武智の親友、権野忠敏がいた。
「うわ、ごんちゃん、びっくりさせないでよー」
「今日は香ちゃんは一緒じゃないのー?」
新聞部部室は武智一党のたまり場である。修学旅行で交友を繋げた女の子ズが集まれば当然その番い達も顔見知りにもなろう。だが結城姉妹は権野の何気ない呟きに少し違和感を覚えた。蟷螂の雄は交尾後に雌に食べられてしまうというのは有名な話だ。だがそれをあの三人の歓談に当てはめているところを見ると、権野は結城姉妹とは違った角度で彼等の何かを知っているということが示唆される。当然姉妹のその訝しさは表情と視線にでて、権野も気づくだろう。
「ごんちゃん、何かしってるの?」
体をよじらせて上目遣いに質問をする結城姉妹。計算しないでこういう動きができるのは天性の才能といってもいいだろう。健全な男であれば視線がどうしてもその豊かな胸元へと誘導されてしまう。無条件に男に負い目を負わせて、情報を引きさせる魔性レベルが高い技だ。権野はドがつくほどの素直くんであるので、当然このフェロモン自白剤の影響をもろに受ける。もっとも彼にとってはこのことは全く隠すことでもないのであるが。
「いや、結城達もミツと関わっているならもう体験してるだろ、アイツがあーいう顔しているときに、まわりの人間がどうなるかなんて」
答えにはなっていない答えだ。だが質問を質問で返すなとは言えない。彼の答えはある意味的を射ていている。だから姉妹は納得するしかなかった。
というのも何がどうなるかなんて、彼女達は身をもって体験していたからだ。権野の答えに彼女達はこれ以上踏み込んで質問ができない。何か聞いてはいけないものが彼の口から出てきてしまいそうな予感がしてならないのだ。その彼の態度から新しい疑問が生まれてきてしまう。彼女達から見てもこの権野忠敏という男は表側の人間だと思っていたのだ。武智の裏の顔をしらない一般人、その最たるものだと思っていたのだから。
香と武智の関係も気づいている?
知っていて黙っている?
などの疑問符が姉妹の脳裏に浮かんでくるが、それを口に出すほど彼女達は愚かではない。武智の関係性を壊すのは彼女達の為にもならないし、そもそも今、武智も、香も幸せなのだ。それが例え歪んで独善的な幸福だとしても、こちら側にいる姉妹からそれを壊すということは思想傾向的に根本的からない。
「ああ、言いたいことはわかる、そういう目を向けられるのは初めてじゃない」
だが権野からのアプローチが始まってしまった。ああ、表情に出し過ぎたと結城姉妹は後悔するすが、彼の言葉から武智という男が善意善良で動いているだけではないということを権野が知っているということを暗示している。きっと権野は過去に武智の所業を受けた被害者から警告めいたものを受けたことがあるのだろう。
「なんで、あんな男と一緒につるんでいられるんだ」
「あいつか裏で何をしているか、知っているのか」
「あんな気が狂っているヤツをなんで野放しにしている」
淡々と権野が結城姉妹が想像していたことをこぼし始める。運悪く丁度逆光で彼の表情が結城姉妹から確認できないという事実が、怖いもの見たさで権野の話を遮るという選択を姉妹から奪い去る。
「まーそんなことは散々聞いたな」
一拍の間。
その間が、リズムが結城姉妹の口を動かしてしまう。
じゃあ、なんで、と。
聞かなければいいのに、そうなんだと流せばいいのに、また会話のボールを権野に渡してしまった。
「ははっ、逆にききてーよ。おまえら、そんなにアイツの敵になりたいのかってさ」
逆光が切れる。権野の表情はいつも通りの人なつっこいお調子者のそれだ。
「お、いけね、待ち合わせしていたんだ、それじゃーな!!」
片手をふりふりしながら部室を出て行く権野。会話はそれで終わってしまった。権野答えには幾つもの核心が含まれていたが具体的なことは何も掴むことはできなかった。武智光博という男と一番長く付き合っていて、関係が破綻しておらず、裏だらけの彼とは正反対と評判の権野忠敏という男。
見送る姉妹の心中で、彼が武智の何を知っているのか、俄然興味が湧いてしまう。そして、姉妹は今夜、武智に少し聞いてみるかと彼の自宅へ立ち寄るのだが。
奇しくも、汰奈橋久通と神田佳奈美、そして武智光博の関係性が転がり始めたのは、この夜がきっかけだった。
「や、やぁああああ、あっあっあっ、あんっ」
二人が武智の家に泊まりに行けば当然の如く、やることは決まっていた。ご飯を食べてシャワーを浴びて、バラエティーで一笑いしたら、夜の運動の始まりだ。今はベッドに二人が四つん這いになって、手マンと逸物で同時で交互に挿入運動である。
「ああっ、あっ、あっ」
力強いピストンでベッド上で踏ん張る藤子の横で、
「ひっ、あっ、いぐぅ、い、いいっ、あううう」
ぬちぬちと、股間を指でかき回されて細かく絶頂して、体を弛緩させる藤子。佳奈美と久通が同居を始めてから、武智の行為がより、激しくなってきているのを姉妹はその身をもって感じていた。権野と武智の関係を聞く前に頭の中身を快感でぐちゃぐちゃにされてしまう。武智の経験数からか、双子一緒という環境故か、傍から見れば学生に似合わぬ、性行為をこの三人にはしているだろう。
「ああ、だめぇ、んいいっ」
頭を振って、髪を乱して、遠慮なく潮を股間から吹き出すまるでAV見たいな行為。それはもはや一般高校生にとってみれば異次元だろう。特に結城姉妹の外見はその点で言えば一級品だ。しかもそれが二人分。そんな彼女達の声と空気が部屋に充満して、あふれ出んばかりの状況に、一緒に住んでいる汰奈橋久通はどのような影響を受けてしまうのだろうか。まだ雰囲気レベルならいい、何かの拍子で、目撃してしまったら?
「ああっ、だめ、だめっ、いく、いくいく。たけちー、わたしもうイくの、ああ、きもちぃ、ああああ、とんじゃううう、やだぁああああ」
祥子の柔尻を掴む武智の右手の銀色の指輪が、またも鈍い光を称えている。
部屋のドアは、武智達が気づくまで何故か少し隙間が開いていた。
「あ、あううっ、やめないで、いいから、そのままっ、うごかしてっ、いくっいくっ!!」
動物のような喘ぎ声、潤い溢れる股間の摩擦音。
そして、歓喜の表情。
「いかせてぇ!!」
女の幸せ。
性の喜び。
快感の充足。
「あはぁッ!!」
誰だってわかる。
女だったら喜んでしまう。
迎え入れてしまう。
何回だってやられたら嬉しくなってしまう。
「んっあっ、……あ、また、あっ、あっあっあっ」
ああ、なんということだろう。
たった今、偶然にもドアのほとりで、
この光景を目撃してしまった者は気づいたはずだ。
武智光博という元ペットという人間と愛する神田佳奈美が、あの獣のような交わりをしていたという事実を。
やり続けていた、という事実を。